客論

迷惑を掛けずには死ねない

「長生きしても何もいいことがない」「早くお迎えが来てほしい」

日々外来診療をしていると、高齢の患者さんからこのような言葉を聞かない日はない。

ためしに、「じゃあ、今飲んでいる薬を全部やめてみましょうか?」と訊くと、「とんでもない! 薬は飲みます」と言われる。

命を救い、長寿の実現を目指してきた医師という存在に対し冒頭のような言葉を発するというのは何とも皮肉な感じがするし、逆にそれが本音なのだろうな…とも思う。そして、その本音を語ってもらえるのは有り難いことだと思う。

だが、「ちょっと待って」とも言いたい。

この世の中を一つの会社と見立ててみると、高齢者は「定年間近のベテラン社員」と例えられるだろう。そのベテラン社員が若手に向かって「この会社に長く勤めても何もいいことがない」「早く定年が来てほしい」と言い続けているようなものである。

そんな会社に活気があるはずはないし、新しく入社しようという若者が現れるはずもない。しかも、その会社を築き上げ、福利厚生を整備し、退職金制度を定めたのは自分たちである。

経営者が悪い、給料が少ない、会社の業績が悪い…などと文句ばかり言っていては、若手社員が将来に希望を抱けるはずもない。

ベテラン社員の役目は、若手が生き生きと働けるよう、これまでの知恵や経験を伝授し、先達としての範を示し、組織に恋々とせず、定年のその日までを精一杯勤め上げることではないだろうか。

「周りに迷惑を掛けずに死にたい」ともよく聞く。

しかし、「自分で棺桶に入り、自分で火葬場に行って焼かれた」という人に私はまだ出会ったことがない。

多かれ少なかれ、誰かの手を煩わせなければ死ぬことはできない。

人に迷惑を掛けずに死ぬことなどできないのである。

「迷惑を掛けたくない」などと叶わぬことを願って人間関係を空疎なものにするより、生きているうちに「迷惑を掛け合える関係」を作ることに心を砕いた方が、よっぽど豊かな毎日を過ごせるのではないかと思う。本物の「迷惑」ばかりだとチト困るが…。

この世の中に、他人からお世話を受ける機会が多い存在として「赤ちゃん」と「高齢者」を挙げるとしよう。

なぜ人は喜んで赤ちゃんの世話をするのか? それは「可愛いから」そして「未来があるから」であろうと思う。

では高齢者が喜んでお世話してもらえる存在であるためには?まずは「可愛いお年寄り」になることである。不平不満・愚痴ばかり言う人の周りにはどうしても人が集いにくい。いつもニコニコしたお年寄りであってほしい。

そして、「未来」は残り少なくとも、「過去」がある。「過去」とは「思い出」である。「うちのじいちゃんにはこんなに良くしてもらった」「あの時の恩返しがしたい」という気持ちがあれば、周囲の者は自然に優しく接するだろう。今のうちにいい思い出をたくさん作っていただきたい。

こんなことを言う私も、相応の年齢になったら「年は取りたくないねえ」とか何とか言っているような気もするが…。