孤独死もまた良し

私の祖母は「孤独死」をした。

今から15年前の夏の日。医師になってまだ3ヶ月の私に、祖母の異変を伝える電話が入った。急いで祖母宅に着くと、そこには布団の中で冷たくなり、変わり果てた姿の祖母がいた。

母によると、前日の夜は普段通り電話で話をしたとのことだった。ちょうど花火大会の夜。「家から花火がきれいに見えるよ」が最後の言葉になった。翌日祖母宅を訪ねたところ応答がなく、室内に入ってみたらすでに息をしていなかったとのことだった。検死の結果、死亡推定時刻は当日早朝とされた。

私は、完全に「おばあちゃん子」であった。「お医者さんは人の役に立つ素晴らしい職業だよ」と幼いころから刷り込まれてしまい、その期待に応えようとして医師になったと言っても過言ではない。野口英世の伝記を買ってきては「読書百遍意自ずから通ず」と教えてくれたり、私が悪いことをした時は「天知る地知る己知る」「公明正大に生きよ」と言って諫めてくれた。厳しい面はあったが、それ以上に深く深く愛してくれた。

そんな祖母に、亡くなる数年前から異変が現れた。1日に何回も電話を掛けてくるようになった。同じ話を何度も何度も繰り返す。近所のスーパーに財布を持たずに買い物に行く。お風呂に入りたがらない。散歩に出ては帰り道が分からなくなる。ある時は大塚台から大工町まで歩いて行ったのを迎えに行ったこともあった。当時はまだ認知症という言葉はなく、「痴呆」や「ボケ」と言った。私は、大好きな祖母がボケていく姿を受け入れられず、動揺し、そして苛立った。時には激しい言葉も浴びせた。そして自己嫌悪に陥った。

そろそろ一人暮らしは無理なのでは・・・と話し合っていた矢先、祖母はあっけなくこの世を去ってしまった。医師として祖母の最期を看取りたいと思っていたが、結局何の役にも立たなかった。最期の瞬間に誰も立ち会わず、たった1人で旅立たせてしまった。己を責め、後悔し、そして祖母に謝罪した。「こんなに寂しくみじめな最期はない」と思った。

その後、たくさんの患者さんの最期に立ち会い、看取りの経験を重ねるうちに、私の気持ちも徐々に変わって来た。それは、「祖母は祖母らしい最期だったかもしれない」ということである。もしあのまま生きていたら、きっと認知症や介護の問題がより切実になっていただろう。プライドの高かった祖母は、私達に世話を掛ける前に潔くこの世を去ったのかもしれない、と思えるようになってきた。

壮絶な闘病の末に亡くなる人、「死にたくない」ともがきながら亡くなる人、天涯孤独でひっそりと生涯を終える人、多くの家族に見守られ大往生を遂げる人。様々な最期があるが、大切なのはそこに「その人らしさ」があるかどうかだと思う。その人らしい最期だったかどうかを決めるのは、遺された者の気持ちである。そしてその気持ちは、数年をかけて少しずつ変化していくのだ。

祖母は祖母らしい最期を遂げた。その意味では「孤独死もまた良し」である。今は祖母が口癖のように言っていた「あなたの顔を見ただけで患者が半分病気が治ったような気持ちになるお医者さんを目指しなさい」という言葉を噛みしめている。
祖母は私の中に生きている。

相撲でまちを元気に

子供の頃は「お相撲さんになりたい」と思っていた。

体格が小さかったため、行司か呼び出しでもいい…と思うくらい相撲が大好きだった。

ある時、朝稽古見学付きの本場所観戦ツアーに参加した。稽古を見学した部屋は「東関部屋」。

当時は横綱曙が土俵に君臨していた。そんな横綱に、全身砂まみれになってぶつかる若い力士がいた。稽古が終わり、偶然近くにいたその力士と写真を撮った。三段目の「潮丸」という力士だった。

数日後、我が家に電話が掛かって来た。「潮丸です。写真ありがとうございました。」初めてお相撲さんと口をきいた私は有頂天になり、彼を応援するようになった。彼はみるみる番付を上げ、ついに幕内力士に昇進した。東京に行くたびに朝稽古を見学し、昇進のお祝いを贈るなど交流が続いた。

6年前に延岡で巡業があり、潮丸も現役の関取として参加していた。食事の席で彼から「師匠の定年に伴い、自分が東関部屋を継承することになった」と聞かされた。私はひらめいた。「部屋の力士を連れて延岡で合宿をしてよ!」と申し出たところ、「いいよ」と応じてくれた。後に聞いたところ、「半分冗談だと思っていた」とのことだったが…。

さっそく合宿実行委員会を立ち上げ、宿舎の確保、土俵の整備、資金の調達に奔走した。延岡市民の皆さんが本当に協力的で、とんとん拍子に合宿の準備が整った。

平成21年の九州場所終了後、東関部屋の力士一行が延岡入りした。稽古場には、早朝から大勢の市民が詰めかけた。地元の女性部とともに作った東関部屋特製ちゃんこ鍋の振る舞いには長蛇の列。最後には足りなくなり、力士用のちゃんこも振る舞いに供出する始末。でも力士たちも笑顔だった。

稽古終了後には、保育園や高齢者施設への慰問活動も行った。どこに行っても力士達は大人気。お年寄りの中には力士に向かって手を合わせたり、「生まれて初めてお相撲さんを見た」と言って涙を流す姿も見られた。わざわざ痛い足を引きずって稽古場に来られ、「ここをさすってほしい」と訴える方もおられた。

夜は繁華街に繰り出してもらい、街の経済活性化にも一役買ってもらった。ちょんまげ姿の力士達が街を闊歩するとたちまち人が寄って来た。お店の人も、「お相撲さんが来ると縁起がいい」と喜んでくれた。

なぜお医者さんがお相撲さんを呼んでいるのか? もちろん私が相撲好きだからなのだが、最終的に医師が目指すのは「そのまちに暮らす人が元気になること」である。であれば、薬を出して元気になろうが、お相撲さんと触れ合って元気になろうが、目的は同じである。しかも副作用がない!

折しも今延岡では、琴恵光関の十両昇進で相撲への関心が高まっている。子供からお年寄りまでが楽しめるのは、やっぱり相撲をおいて他にはない。

今年の東関部屋合宿は11月30日から12月10日まで西階運動公園にて。ちゃんこ鍋の振る舞いや餅つき、ちびっこ体験入門など楽しい企画をたくさん用意している。ぜひ足を運んでいただきたい。

私の究極の夢は…いつか横綱審議委員になって、宮崎県出身力士を横綱に昇進させることかな?

迷惑を掛けずには死ねない

「長生きしても何もいいことがない」「早くお迎えが来てほしい」

日々外来診療をしていると、高齢の患者さんからこのような言葉を聞かない日はない。

ためしに、「じゃあ、今飲んでいる薬を全部やめてみましょうか?」と訊くと、「とんでもない! 薬は飲みます」と言われる。

命を救い、長寿の実現を目指してきた医師という存在に対し冒頭のような言葉を発するというのは何とも皮肉な感じがするし、逆にそれが本音なのだろうな…とも思う。そして、その本音を語ってもらえるのは有り難いことだと思う。

だが、「ちょっと待って」とも言いたい。

この世の中を一つの会社と見立ててみると、高齢者は「定年間近のベテラン社員」と例えられるだろう。そのベテラン社員が若手に向かって「この会社に長く勤めても何もいいことがない」「早く定年が来てほしい」と言い続けているようなものである。

そんな会社に活気があるはずはないし、新しく入社しようという若者が現れるはずもない。しかも、その会社を築き上げ、福利厚生を整備し、退職金制度を定めたのは自分たちである。

経営者が悪い、給料が少ない、会社の業績が悪い…などと文句ばかり言っていては、若手社員が将来に希望を抱けるはずもない。

ベテラン社員の役目は、若手が生き生きと働けるよう、これまでの知恵や経験を伝授し、先達としての範を示し、組織に恋々とせず、定年のその日までを精一杯勤め上げることではないだろうか。

「周りに迷惑を掛けずに死にたい」ともよく聞く。

しかし、「自分で棺桶に入り、自分で火葬場に行って焼かれた」という人に私はまだ出会ったことがない。

多かれ少なかれ、誰かの手を煩わせなければ死ぬことはできない。

人に迷惑を掛けずに死ぬことなどできないのである。

「迷惑を掛けたくない」などと叶わぬことを願って人間関係を空疎なものにするより、生きているうちに「迷惑を掛け合える関係」を作ることに心を砕いた方が、よっぽど豊かな毎日を過ごせるのではないかと思う。本物の「迷惑」ばかりだとチト困るが…。

この世の中に、他人からお世話を受ける機会が多い存在として「赤ちゃん」と「高齢者」を挙げるとしよう。

なぜ人は喜んで赤ちゃんの世話をするのか? それは「可愛いから」そして「未来があるから」であろうと思う。

では高齢者が喜んでお世話してもらえる存在であるためには?まずは「可愛いお年寄り」になることである。不平不満・愚痴ばかり言う人の周りにはどうしても人が集いにくい。いつもニコニコしたお年寄りであってほしい。

そして、「未来」は残り少なくとも、「過去」がある。「過去」とは「思い出」である。「うちのじいちゃんにはこんなに良くしてもらった」「あの時の恩返しがしたい」という気持ちがあれば、周囲の者は自然に優しく接するだろう。今のうちにいい思い出をたくさん作っていただきたい。

こんなことを言う私も、相応の年齢になったら「年は取りたくないねえ」とか何とか言っているような気もするが…。

夢はかなわなくてもいい

「諦めなければ夢は必ずかなう」「夢の実現に向かってたゆまぬ努力を」─。ちまたには、このような言葉があふれている。だが、実際に夢を実現させた人など、どれほどいるのだろうか。

子供の頃には、必ず「将来の夢」について書かされる。たいてい「プロ野球選手」「サッカー選手」「歌手」などの「憧れの職業」を書く同級生が多かった。しかし、私の同級生からはプロ野球選手も、サッカー選手も、歌手も生まれてはいない。夢を実現させるのは容易なことではない。

だから、夢を実現させた人はもちろん素晴らしい。不断の努力を続け、多くの挫折を乗り越えてきたはずである。その姿は多くの人に感動を与え、時には生きる希望を与えることもある。「偉い!」と言ってもいいだろう。

では、「夢を実現できなかった人」は「偉くない」のか?

私は幼い頃から「お医者さんになりたい」と思っていた。その意味では「夢をかなえた人」になるかもしれない。ただ当時は漫画「ブラック・ジャック」のような天才外科医に憧れていたから、完全には夢をかなえていない。

病院の中では、医者が一番偉そうにしている。だが、たとえ医者が100人集まっても、病院の柱1本建てることはできない。病院の床やトイレをきれいに掃除してくれる人がいるからこそ、気持ちよく仕事をすることができる。滞りなく物品を搬送してくれる人がいてこそ業務に支障をきたすことがない。そもそも、病気やケガで通院する患者さんがいなければ病院は成り立たない。そしてその患者さんも家庭や社会の中ではそれぞれの役割を担っているはずである。

そのような人の中には「夢をかなえられなかった人」が大勢いると思う。この世の中は、自らの今の持ち場や役割をしっかりとこなす多くの「夢かなえられなかった人たち」によって支えられていると言ってもいいと思う。

「オリンピックで金メダル」「大リーグで年俸数億円」という夢をかなえる人はもちろん素晴らしいし偉いと思う。だが、その結果や実績・数字のみが強調されすぎているような気がする。夢は、実現させた結果だけが重要なのではなく、実現に向けて努力した過程において学んだこと、挫折によって得られたもの、そしてその後どう生きたかということがより大切なのではないかと思う。

私は、開業して初めて「社会人になった」と感じた。勤務医時代は、ただひたすら医療のことだけをやっていればよかった。だが開業医になり、建物を建てることから始まり、人を雇い、給与を支払い、税金を納め、コストを考えて仕入れをし…など、ようやく社会の仕組みや世の中の流れに目が向くようになった。そしてそこには、黙々と働く多くの人がいることに気が付いた。それら全ての人がいてこそ私は医師として生きられるのであるし、社会の一員としての役割を果たすことができる。医師だけが偉いのではない。

夢をかなえた人はもちろん素晴らしいが、夢かなわずとも一人の人間として懸命に生きている人たちの存在を忘れてはいけない。そして、それら全ての人たちを相手にするのが医師という職業なのだ。

みんな「偉い!」のである。

待ち時間が増えて嬉しい

今年のインフルエンザの流行はすさまじかった。

当院でも、多い時は午前中だけで100名を超す患者さんが来院された日もあった。昼食も満足に摂らず対応したが、それでもどうしても待ち時間は長くなり、2~3時間以上お待たせする結果となった。

「三時間待ちの三分診療」と揶揄されるほど、病院の待ち時間は長い。なぜだろうか?

私が考えるに、病院での診察は「便器がひとつしかない公衆トイレ」に例えられると思う。

全ての利用者(患者)は、ひとつの便器(医師)を使うしかない。当然行列は長く伸びることになる。短時間で用を足す人もいれば、長時間居座る人もいる。誰が短くて誰が長居するのか、並んでいる段階では互いにわからない。

時には「漏れそう!」などと言って順番を抜かして(救急搬送されて)、トイレに駆け込む人もいる。

パンツを脱ぐのに時間が掛かる人もいるし、トイレの使い方に戸惑う人(診察に介助が必要な人)もいる。

「トイレまで行けないので、家まで便器を持ってきて」と言われれば、便器を抱えてご自宅を訪ねることもある(すなわち「往診」)。その間、公衆トイレは「便器不在(医師不在)」となり、行列はストップすることになる。例え予約をしていても、なかなか予約通りにいかない所以である。

便器の数(医師数)を増やせば解決するだろうが、そう簡単には増やせない。

では、どうすれば待ち時間を減らすことができるだろうか?

まずは、できるだけ公衆トイレを使わず、自宅のトイレで済ませることである。これは、「すぐ病院」ではなく、自己の体調管理や予防に力を入れ、「病院に行かなくてもいい体づくり」に通じる。

次に、できるだけ短い時間で用を足す(診察が効率よく終わるように協力する)努力が必要である。すなわち、自分の症状や質問を的確に伝えるためにメモを用意したり、複数の医療機関に掛かっている場合には「お薬手帳」を必ず持参してほしい。

受診の際は、脱ぎ着しやすい恰好でおいでいただくことも重要である。それにしても、なぜお年寄りはあんなに重ね着をするのかと思う。これまでの最高記録は「上7枚、下5枚」。思わず「まるで十二単ですね!」と言ってしまった。健康診断なのにボディースーツを着込んで来る方もいる。

我々も、できるだけ待ち時間を減らしたいと思っている。しかし、丁寧な診察や、じっくりお話を伺う時間を確保しようとすれば、どうしても待ち時間は長くなる。であれば患者さんも、効率よく診察ができ、少しでも待ち時間が短くなるように協力していただきたい。

ある時、開院当初から通院される患者さんに「待ち時間が長くなってごめんなさいね」と言ったところ、「私は待ち時間が長くなって嬉しい」という意外な言葉が返って来た。理由を尋ねると「待ち時間が長くなるということは、それだけ先生の患者さんが増えてきたということでしょ? だから私は嬉しいんです」と答えられた。

まさに医者冥利に尽きる言葉である。医者も患者も、ともに心を通じ合わせ、気持ち良く診察を終える関係でありたいものである。

医師不足対策は「愛」だ

地域の医師不足問題が深刻である。

延岡市でも、医師の絶対数不足に加え、診療科の偏在や開業医の高齢化(平均年齢は60歳を超えている)、医療機関の後継者不足に頭を悩ませている。

「医療機関新規開業促進事業」として開業奨励金を支給し(当院が認定第一号)、一定の成果は挙げているが、現状はまだまだ厳しい。

どのようにすれば地域に医師を呼び込むことができるのか?

まずは、なぜ地域から医師がいなくなるのかを考えてみる。

これは「逃げた嫁さん」として考えてみると分かりやすいと思う。

家事が大変(過重労働)、生活費が少ない(給与への不満)、自分の時間がない(長い拘束時間)などが重なると、逃げ出したい気持ちが募ってくるだろう。

しかし、決定的な決め手は「愛情」がなくなることだと思う。「愛されていない」と感じることほど寂しいことはないだろう。

業界的には「売り手市場」なので、逃げ出しても次の嫁入り先(就職先)は容易に見つけることができる。

確かに結婚生活(医療の現場)は厳しい。だがそれは百も承知で嫁入りして(医師になって)いる。そのモチベーションを維持する最も大きな力は、結婚相手(住民)から「感謝の気持ち」すなわち「愛情」を直接受け取ることである。

延岡市では、先述の開業奨励金に加え、「地域医療を守る条例」を制定したり、市民団体が熱心に活動するなど、地域医療を守る取り組みが盛んである。「お医者さんを大切にしよう」という意識、すなわち「愛情」を感じるまちである。

さて、医師を呼び込む「秘策」がある。

世は「婚活」が花盛りである。最近は自治体が主催するお見合いパーティーもあるとか。

では、医学生を対象とした「婚活事業」はできないだろうか?

「地域医療実習」として、延岡の医療機関を見学したり、地域医療の現状について実際に学ぶ。夜は地元の若い女性たち(もちろん男性も可)と交流しながら、地域医療やまちづくりについての「夜なべ談義」をしてもらう。

翌日はそのまま延岡市内を観光。シュノーケリングやボルダリング、カヌー遊びなどを一緒にすると親密度が増しそう。出逢いの聖地・愛宕山は必ず訪れたいところ。

そうやって一組でも二組でもカップルが成立すれば、将来医師になってから延岡で働いてくれる可能性が高まる。それは、宮崎市出身の私が延岡市で開業していることが何よりの証拠である。妻が延岡市出身でなければ考えてもいなかったことである。

子育てをする上においても、妻の実家が近くにあることのメリットは大きい。地方で働こうとすると、たいてい奥様の抵抗がネックになるので、そのハードルがないことは重要である。

私の印象だが、医師は子だくさんの家庭が多い(ちなみに我が家は4人)ので、少子化対策にも効果があるものと思われる。

「地域を愛する」ことはもちろん大切であるが、「愛する人の地域に住む」ことの良さをもっとアピールしていいのではないかと思う。

繰り返して言う。

医師不足対策の鍵は「愛」だ!

「育休」で人生が変わる

長女が生まれたとき、一か月間の「育児休業」を取得した。

当時は大学病院で外科医として勤務していた。文字通り朝から晩まで働き詰め。休日も必ず病棟に行って受け持ち患者を診て回り、週末はほとんど毎週のように当直をしていた。もちろんきつかったが、他の医師も同じような毎日を過ごしており、それが当たり前だと思っていた。

子供が生まれ、ふと「育休取れないかな?」と思いついた。

大学病院勤務の男性医師が育休を取るなどまさに前代未聞。当時の上司に育休取得を申し出た際の「そんな法律があるのかね」という言葉が今も忘れられない。常々その上司は「自分は毎日病院に泊まり込んでいた。子供のオムツも替えたことがない」と豪語していたから無理はない。

何とか上司の許可を得、同僚医師に育休中の勤務調整をお願いした。意外にも「僕もやりたかったよ」「頑張って」などと応援してくれる声が多く嬉しかった。

そもそも私が外科を選んだ理由は「一番忙しいから」。人生の全てを仕事に捧げるつもりでいたし、実際その通りの毎日だった。

だが、子供が生まれ、その考えは大きく変わった。

先に子供を持っていた友人から「こちら側の世界へようこそ」と言われ、最初は意味が分からなかったが、今では実感を持ってよく分かる。子供が生まれるということは、「全く違う人生が始まる」ということなのだ。

育休中は、オムツ替えはもちろん、ミルクやり・入浴・着替え・洗濯物干しなど一通りのことは全部やった。留守番をして妻を美容室に行かせるのも大切な仕事。おかげで今でもベビーカーを押したり、おんぶしたりして近所のスーパーに行くのも全く平気。そんな姿を患者さんに見つかることもしばしばである。

そして実感したのは、「やっぱり母親は偉大」ということである。専業主婦も大変だし、働くママさんとなるとさらに大変である。

この時の経験が、開業医となった今に生きていると思う。

当院の職員の中で男性は私1人。完全に「女性の職場」である。

小さいお子さんを子育て中の職員も多い。そのため、急な発熱や学校行事などで休まざるを得ない場面が増えてくる。

私は、その全てを快く認めるようにしている。もちろん業務的には厳しくなる場合もあるが、残った職員でカバーし合える関係を作るのが大切だと思っている。「困ったときはお互い様」が合言葉。「働きやすい職場」とは、「休みやすい職場」だろうと思う。

そして、「家庭の充実なくして仕事の充実なし」とも思う。

子供と一緒に過ごせる期間なんて、長いようであっという間である。子供としっかりと向き合い、家庭生活を充実させてこそ、さらにいい仕事ができるはずである。

男性の育休取得率はなかなか上昇しないが、たとえ1~2週間の短期であっても、仕事観や人生観を変える時間になり得ると思う。

世の男性陣よ、育休を取ってみよう。きっと違う風景が見えてくる。女性からのウケも良くなる?

世の経営者よ、男性職員に育休を取らせてみよう。きっと職場の雰囲気が変わってくる。お互いの立場を尊重し合える職場に…。

肩書なしで勝負できるか

医師になりたての頃、「先生」と呼ばれるのがとても気恥ずかしかった。

大学を卒業し、医師国家試験に合格したとは言っても実戦経験はほぼ皆無。毎日が冷や汗の連続であるのに、患者さんや看護師さんから「先生」と呼ばれる。大先輩の先生からも「先生」と呼ばれる。

最初は「はい!」と返事をするのにも勇気がいるほどだった。

それが今はどうだ。

「先生」と呼びかけない奴には返事をしない…ということはもちろんないが、近くで「先生」と聞こえると反射的に返事をしてしまっている自分がいる。時には別の先生が呼ばれているのに、自分が振り返ってしまうことすらある。「先生」=「自分」という感覚が刷り込まれてしまっているようだ。

医師として相対する患者さんは、ほとんどが「人生の大先輩」であるが、そのような方も私のような若造に「先生」と言って頭を下げてくださる。

取引先の業者の方も、私よりかなり年上の方でも、恭しく頭を下げられる。

しかしそれは、私個人に対してではなく、私の持つ「医師免許」に対して頭を下げてくださっているのだということを勘違いしないようにと心がけている。

休日などは、私はほとんどラフな格好で過ごしている。一見すると「若いお兄ちゃん」といった風情なので、医師と気づく人は少ない(最近は「客論」執筆の影響もあり少し顔が売れてしまったが…)。それが「お医者さん」と分かった途端に相手の態度が変わることがある。

もちろん、より丁寧に対応してくれるなど、いい方向へ態度が変わることが多いのだが、「医師」という肩書の持つ力を感じる瞬間である。

時々思う。

もし私が医師でなかったとしても付き合ってくれる人はどれほどいるのだろうか…と。

私自身に、一人の人間としての魅力はどれほど備わっているのだろうか…と。

「先生」と呼ばれて気を悪くする人はいないし、相手の名前を忘れた時も、取りあえず「先生」と呼んでおけば間違いがないのですこぶる便利な呼び方ではある。もはやニックネームと化している感覚すらある。

だが、自分は「先生」と呼ばれるに足る人間であるのかを常に自戒したいと思う。

と同時に、「先生」や「医師」という肩書なしで、一人の人間としても勝負できる男でありたいと願っている。

「医師」と「私」はもはや分けることはできない。だからこそ診察室から飛び出し、地域の様々な人と触れ合うことによって、地域に暮らす人の価値観やものの見方を肌感覚として共有したいと思っている。医師の論理に染まりきってしまわないように…。

小中学校の同級生などに会うと、「おう、榎本!」と言って頭を叩き、肩を組んでくる。まことに居心地のいい空間である。いつまでもそのような付き合い方のできる人間でありたいと思う。

最近、「医師にしておくのはもったいない」と言われることが多くなってきた。私にとっては最大級の褒め言葉だとありがたく受け止めている。

延岡は「宝のまち」

延岡で開業して6年が経った。

子供の頃から何度も遊びには訪れていたが、実際に住んでみて驚いた。

ものすごく住み心地がいいのである。

まず自然が豊か。海・山・川はどれも一級品。全国的にも注目されるアウトドア天国だということを、地元の人すらまだよく知らない。その分、手つかずの自然がたくさん残っている。

そして食べ物がうまい。特に魚介類は絶品である。旭化成の煙突を眺めながら天然の鮎を食べることができる場所など、日本中探してもここだけだろう。島野浦で食べた魚のうまさも忘れられない。

新鮮な野菜も豊富だし(多くの方が自分で野菜を作っている)、延岡の人は本当にいいものばかりを食べているな!と思った。

さらに何と言っても、市民の皆さんの人柄がいい。道を歩けば気さくに声を掛けて下さるし、診療所への差し入れも山のように届く。

地域のつながりもまだまだ残っている。延岡に来るまでは盆踊りなど一度もしたことがなかったが、こちらでは大人も子供も皆がばんばを踊ることができる。その地区で初盆を迎える方の遺影を飾り、線香を手向けて踊る様子を見て、連綿と続く地域の皆さんの想いに触れた気がした。

こんなに素晴らしいまちなのに、地元の皆さんは「何もない所で…」などと言う。

とんでもない! 私に言わせれば、まさに「宝のまち」である。

ならばと、延岡の良い所を集めて「相撲甚句」を自作してみた。

題して「延岡名物

(アー ドスコイ ドスコイ)
〽ハアーエー
延岡名物を 甚句に詠めばヨー
(アー ドスコイ ドスコイ)
アー
内藤殿様 ご自慢の
七万石なる 城下町
千人殺しの 石垣に
牧水親しむ 鐘の音
大崩 行縢 愛宕山
島浦のぞむ うみウララ
五ヶ瀬 北川 祝子川
清流育む 若鮎に
掛けたるやなは 天下一
ばんば 神楽に 薪能
歴史をつなぐ 市民力
今山登れば お大師さん
もてなす心は お接待
チキン南蛮 メヒカリに
ウルメイワシに 伊勢海老に
破れ饅頭 次郎柿
美味なる食材 豊かにて
地酒 地ビール 地焼酎
三蔵飲んで 酔ちくれて
雲突く紅白煙突は
世界に羽ばたく 旭化成
陸上王国復活の
旗なびかせる のぼりざる
高速道路の開通に
観光客も倍増の
スポーツランド アウトドア
一年納めの 師走には
東関部屋合宿よ
延びゆくまちに これからも
益々幸せ来ますよう
ここにお祈りヨーホホイ
アー申しますヨー
(アー ドスコイ ドスコイ)

さて、延岡が1年で最も熱く燃える「まつりのべおか」が7月25・26日に開催される。私も実行委員として太鼓を叩いたり花火に点火したりする予定。ぜひ多くの方においでいただき、延岡の魅力を堪能してもらいたい。

延岡に住んで本当によかった。

地域医療はまちづくり

「地域医療はまちづくりの一環である」―。

私が初めてこの言葉を聞いたのは、大学5年生の地域医療実習の時。当時西郷村立病院長だった金丸吉昌先生のこの一言が、私の医師として進むべき道を指し示してくれた。

学生時代は、大学のある清武町中野神社の神輿復活に携わった。地元の和太鼓チーム「若武会」に入り、地域の祭りや高齢者施設の慰問にも回った。地域の皆様と触れ合い、医療に対する想いを肌で感じることができた。

外科医となったが、地域医療やまちづくりへの想いが大きくなり、「これからはまちを手術する」などと大きなことを言って6年前に妻の出身地である延岡市大貫町で開業した。

金丸先生の言葉を理念に掲げ、開業の日のインタビューでは「将来は診療所の駐車場で祭りや朝市を開催できるほど地域に溶け込む診療所を目指したい」と答えた。

地域の盆踊りや住民集会には出来るだけ顔を出し、商工会議所や観光協会にも加入して地域の行事やイベントに積極的に関わった。

幸い、地元には住民同士のつながりが強く残っており、女性部を中心として「診療所朝市(先日開催100回を達成)」を始めたり、人生の終末期すなわち「おしまい」について考える勉強会「しまい塾」を立ち上げたりすることができた。

診療所移転の際には患者さん達にも引っ越しを手伝ってもらい、上棟式では差し入れの餅米180㎏分の餅をまいた。

毎月1回「百円居酒屋」として診療所の2階を開放し、どなたでも気軽に立ち寄って酒を酌み交わしてもらい、医師ではなく一人の「人間」としての触れ合いを持つ取り組みももう5年も続いている。

「地域医療」の目指すものとは何だろうか?

それは、「地域に暮らす全ての人々が元気に過ごし、幸せになること」である。

では「まちづくり」は一体何のため?

これも「そのまちに暮らす全ての人々が元気で幸せになるため」ではないだろうか。

であれば、地域医療もまちづくりも、目指すものは全く同じである。たまたま「医療」という側面を担っているに過ぎない。

ただ、地元の人も住まない、愛さないような地域に医師が来るはずはない。一方、医療が充実しないと住民も安心して住み続けられない。その意味では「医療」と「まちづくり」は車の両輪であると言えると思う。

「地産地消」という言葉がある。私はこれを「地産地生(しょう)」と読み換えたい。「地域で産まれ、その地域で生きていく」という意味である。さらにその先には「地産地死」がある。「地域で産まれ、その地域で人生を終える」ということだ。

そのまちに産まれ、暮らし、老い、病気になって人生を閉じる…。そこに人生の喜びや悲しみ、苦しみや楽しみがあり、それら全てをひっくるめて幸せを感じることができる…。その人の想いや生き様が次の世代に受け継がれていく…。

そんな地域を目指すのが「地域医療はまちづくり」という言葉の真意ではないかと思う。

「地域医療」とは、まちづくりそのものである。

幸せな医療を求めて

「医師は何のために存在しているのか?」─。

学生時代からずっとこのことについて考え続けてきた。

一般的には、「病気やケガを治し、患者さんの命を救うこと」と言われる。

だが、世の中に「死なない人」はいない。治療により命が延びる人はいるだろうが、その人も最終的にはいつか亡くなる。

「命を救う」ことのみを目指していては、その目標は絶対に達成されることはないし、それではいつまでたっても患者の死は「医療の敗北」になってしまう。

だからと言って「不老不死」を目指すのが良いとも思えない。

医師の存在意義については、違う価値観が必要なのだと思う。

医師になって、もはや助かる見込みもないと思われる方に濃厚な医療を行ったりした。寝たきりで、意思表示もできない高齢の患者さんに胃瘻を開ける処置もした。

「自分が同じ立場ならこんな医療は受けたくない」と思い、「自分が受けたくない医療を提供している自分」という存在に悩んだ。

そして、医師が目指すのは、単に「命を救う」ということではなく、「その人を幸せにする」ということではないかと思うようになった。

では、「幸せ」とはいったい何だろうか?

ある人は「周りの人とつながっていると感じること」と言った。

別のある人は「明日の生活に希望が持てること」と言った。

さらに別の人は「いろいろあったけど、それなりの人生だったと思えること」と言った。

「幸せ」は、100人いれば百通りの答えが返ってくるだろう。すなわち、きわめて主観的なものなのである。

であれば、自分で「幸せだ」と思い込めば、その瞬間から幸せになれる。反対に、どんなに恵まれた環境にいても、現状を受け入れず、不満を抱いてばかりいては、いつまでたっても幸せになれない。

「生老病死」という言葉がある。世の中の代表的な「苦」であるが、「生きるのがきつい」「年は取りたくない」「病気になりたくない」「死にたくない」…と、否定の連続で人生を送っても、幸せになどなれるはずはないだろう。

この言葉は、「生も死も思い通りにならない」ということを言っているのだと思う。それら全てを受け入れることが、真に幸せになれる唯一の道ではないかと思う。

「徒然草」に次のような一節がある。

「飽かず、惜しと思はば、千年を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ(現代語:人生に満足せずに、いつまでも生きていたいと思うなら、たとえ千年生きても、一夜の夢のように短いと思うだろう)」

病気になったとしても、あるいは亡くなってしまったとしても、その人が自分の運命を受け入れ、「幸せな人生だった」と思えるように、医師としてできること、医師にしか出来ないことは何か。

それは、医師がその人を受け入れ、寄り添い、「ともに在る」姿勢を示し、安心感を与えることではないかと思う。

患者さんが「その人らしい」人生を送り、幸せを感じてもらえるように、私自身も幸せを感じながら、さらに精進を重ねていきたい。

1年間お読みいただき、ありがとうございました。

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