客論

幸せな医療を求めて

「医師は何のために存在しているのか?」─。

学生時代からずっとこのことについて考え続けてきた。

一般的には、「病気やケガを治し、患者さんの命を救うこと」と言われる。

だが、世の中に「死なない人」はいない。治療により命が延びる人はいるだろうが、その人も最終的にはいつか亡くなる。

「命を救う」ことのみを目指していては、その目標は絶対に達成されることはないし、それではいつまでたっても患者の死は「医療の敗北」になってしまう。

だからと言って「不老不死」を目指すのが良いとも思えない。

医師の存在意義については、違う価値観が必要なのだと思う。

医師になって、もはや助かる見込みもないと思われる方に濃厚な医療を行ったりした。寝たきりで、意思表示もできない高齢の患者さんに胃瘻を開ける処置もした。

「自分が同じ立場ならこんな医療は受けたくない」と思い、「自分が受けたくない医療を提供している自分」という存在に悩んだ。

そして、医師が目指すのは、単に「命を救う」ということではなく、「その人を幸せにする」ということではないかと思うようになった。

では、「幸せ」とはいったい何だろうか?

ある人は「周りの人とつながっていると感じること」と言った。

別のある人は「明日の生活に希望が持てること」と言った。

さらに別の人は「いろいろあったけど、それなりの人生だったと思えること」と言った。

「幸せ」は、100人いれば百通りの答えが返ってくるだろう。すなわち、きわめて主観的なものなのである。

であれば、自分で「幸せだ」と思い込めば、その瞬間から幸せになれる。反対に、どんなに恵まれた環境にいても、現状を受け入れず、不満を抱いてばかりいては、いつまでたっても幸せになれない。

「生老病死」という言葉がある。世の中の代表的な「苦」であるが、「生きるのがきつい」「年は取りたくない」「病気になりたくない」「死にたくない」…と、否定の連続で人生を送っても、幸せになどなれるはずはないだろう。

この言葉は、「生も死も思い通りにならない」ということを言っているのだと思う。それら全てを受け入れることが、真に幸せになれる唯一の道ではないかと思う。

「徒然草」に次のような一節がある。

「飽かず、惜しと思はば、千年を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ(現代語:人生に満足せずに、いつまでも生きていたいと思うなら、たとえ千年生きても、一夜の夢のように短いと思うだろう)」

病気になったとしても、あるいは亡くなってしまったとしても、その人が自分の運命を受け入れ、「幸せな人生だった」と思えるように、医師としてできること、医師にしか出来ないことは何か。

それは、医師がその人を受け入れ、寄り添い、「ともに在る」姿勢を示し、安心感を与えることではないかと思う。

患者さんが「その人らしい」人生を送り、幸せを感じてもらえるように、私自身も幸せを感じながら、さらに精進を重ねていきたい。

1年間お読みいただき、ありがとうございました。